小野篁
芸州入野の郷に、その頂上より夜々光を放ち、日々紫雲たなびく山があった。
730年(天平2年)行基上人がこの山に登られ、霊光を放っていた桜の大樹を切り、「千手観音像」を刻みお堂を建て、「桜山花王寺」と名付けられた。
これが「竹林寺」の始まりである。
当時この山の麓に竹野辺秀職なる人に仕える、八千代という女性があった。
八千代は常にこの寺の御本尊を信仰し千日の参拝を続けていたが、満願の日の夜半お堂の中から童子が現れ五色の玉を彼女に授けた。
やがて八千代は802年(延歴二十一年)の春、男子を出産したが、その子が自ら「吾はこれ篁なり」と名乗った。
八千代は不思議に思いながらよろこんで養育につとめたところ、幼時よりまことに聡明で竹野辺殿にいつくしまれたという。
長じて十二才の時、東の平安京(京都)をめざして郷里を出発した。
都での篁はいよいよ勉学に励み学芸・詩歌に優れた有名な人となり、関白小野大臣良相の娘と結婚して小野家を継ぎ「小野篁」と号した。
篁は時の嵯峨天皇に仕え、参議に登用され、さらに文学博士に任じられたという。
又、篁は、非凡の人で昼はこの世で人々のために働き夜は冥途に至って冥官として罪の軽重を裁いたといわれ、
852年(仁寿2年)五十一才の時、京都愛宕寺前で大地を蹴破り地底に入られたという。
更に篁は、百年後再びこの世に生まれ僧となって郷里の山寺(竹林寺)で冥途の十王尊像の内九体を刻み、残り一体は自ら生身の仏となられたという。

その時から寺号も「篁山竹林寺」と改められた。
この物語は、県重要文化財「紙本着色竹林寺縁起絵巻」のあらましである。
河内町
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