広島県史跡 五品嶽城跡
所在地 広島県比婆郡東城町大字東城字五本ヶ嶽山7番地の1ほか6筆
指定年月日 昭和62年3月30日
この城跡は、戦国時代から江戸時代初期にかけての山城で、五本竹城・世直城ともいわれた。
築城年代は明らかではないが、宮氏が築城し、のち大富山城を築いて西に移るまで、宮氏の本拠とされた。
以来、宮氏はこの城を東城、大富山城を西城と呼んだ。
宮氏が毛利氏の命で出雲に転出したあと、天正19年(1591)には石見国から佐波筑後守弘忠が東城城主として赴任した。
佐波氏は菩提寺を川東の千手寺に合併し、寺領を寄進している。
しかし左波氏も慶長5年(1600)の関が原の戦いののちは毛利氏に伴って萩に移った。
毛利氏に代わって芸備の太守となった福島正則は、その三家老のひとり長尾隼人正一勝を東城の城主に任命し、備中・伯耆の国境守備にあたらせた。
長尾氏は帝釈の永明寺に鉄製の鰐口を、川西の法恩寺には大般若経600巻を寄進している。
しかし元和元年(1619)には福島正則も広島城の無断改修を理由に改易され、長尾氏も津山に去って、この城は廃城となった。
この城は東城の町並みを東眼下に見下せる通称城山(標高490m、比高170m)に築かれたもので、西側に続く山並みとは鞍部を切り取って深さ約15mの堀切としている。
郭群は頂部の常の丸、太鼓の平を中心に北東方面にのびる尾根の上にケヤキが平、カヤの平とほぼ連続して設けられているが、山麓にも杉の平、物見が丸などの郭がみられる。
この上司は、中世遺構の上に近世初頭の技術が加えられている点に特色がある。
近世初頭以降は完全に近く保存されており、学術的に貴重である。
             昭和62年9月30日建設
             広島県教育委員会
             東城町教育委員会