2004年3月19日
しぇるぱ単独
山域:広島備北

釜峰山、昔は戦の守り神

 

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釜峰神社、一の鳥居今、家を建て替えようとしているんですよ。敷地整理するためタケヤブを切り払った、すると、タケヤブの向こうに綺麗な山が顔を出してきました。
地図を点検すると、あの山は釜峰山だろうな。機会を見つけ、ロケーション確認に、麓まで行って見ると、この姿は釜峰山に他ならない。
いずれは行くぞと決めてはいたが、よぅし、今日、行こう。
道は、三次から比婆郡口和町、平成の自治体合併で庄原市になるが、その前史は、口北村と口南村が合併したものなんですよ。
その口南の有力ポイントが永田、そこまで来ると、谷の奥に釜峰山がどぉんと姿を現すよ。
二の鳥居、天狗の面の祠ここが永田、県道が県道とクロスして、丁字形のカタチになる。正面の道は行けるのかな、えらい細いじゃないか。ダイジョウブ、そのまま真っ直ぐに進んでちょうだい。
民家の間の細い道もそんなにいつまでも続かない、すぐにたんぼの間の道になるさ。
道が進むうち、「釜峰神社、森林浴公園」の案内標識が出てくる、この標識は最近立てたものだね、前にロケーション調査した時には無かったものね。
次の分岐は、看板が伊与谷、そちらの方向へ向かえばええからね。
釜峰山が道の向こうにたちはだかる、山の麓までやってきたねぇ。
道が分かれている、どっち、右へ行くんですよ。閉じた谷のほうに向かえばよい、選んだ谷がいつまでも開いていたなら、それは間違い、引き返せばええ。
アベマキ、群生地谷沿いの道は鳥居の前まで誘導される。少し引き返すと、駐車場所が用意されている。
鳥居の扁額は鎌峰宮、建造年は明治の頃だ、釜峰、鎌峰、当時は名前はどっちでも良かったんだろうね。
鳥居の前に献灯や功績碑、これも明治の頃のものだねぇ。
鳥居のお宮は釜峰神社、日清日露戦争の頃から太平洋戦争にかけて、戦の神様として名高かったんですよ。
近在だけではなく、遠く四国九州までに名前を響かせたというからすごいよね。
夫の、息子の、武運長久を祈ってハダシ参りで参詣したご婦人達も大勢いたそうな。
戦争時の熱だもの、在郷軍人会や靖国英霊の会などが大動員して、参拝しなけりゃ非国民、そんな有言無言の圧迫もあったろうね。
釜峰神社の絶壁そりゃぁ、戦後は寂れたさ、だれも参るものなく朽ちて行ったということだそうな。
鳥居から奥は舗装の林道、伊与谷林道釜ケ峰分線、そうかい、釜ケ峰とも言うのかい。
奥へ進むとたんぼがあって、休耕田みたい、ここでは現役のたんぼとして使うには荷が重いよねぇ。
舗装路の終点だよ。鳥居があって祠がある。看板を読むと、ここが二の鳥居、天狗の面を収める祠、とある。
ガラス越しに覗いてみよう。うわ、でかい天狗の面だ。そうかい、釜峰神社と言うその昔は天狗社と言ったのかい。
ここからの道はどう行こう、祠の裏の道か、谷の真正面の道か。ま、裏の道から行こうかね。
広い地道と狭い階段、階段のほうを選んだが、正解だった。地道は途中でなぜか消えてしまうんだよ。
アズマヤが現われた、光明寺跡と書いてある。
釜峰神社城主の湯木氏は天狗社、光明寺、法林寺を建立してうんぬん、要するに、このへんに寺があったらしいということか。
看板がある、山城があって、類いまれな形式なんだとさ、七条掘切がそうなんだそうな。
戦国時代の城址豪族にはあんまり興味がわかないが、周囲の風景のほうが興味深いよ。
なになに、このあたり一帯がアベマキの群生自然林、天然記念物かい。
なるほど、樹皮はナラ・クヌギじゃない、分厚くてコルクの厚みの樹皮だねぇ、これがアベマキなのかい。
ぐるぅりと、山腹尾根を迂回すると、断崖絶壁が現れてきた。
断崖の中途に穴が見える、あれが看板に言う巌洞窟なのかい?
看板におどろおどろしいことを書いてあるが、あんなところで住めるかい、修行できるかい。あそこで修行したらば、さぞかし功験が得られることだろうな、と言い換えることにしよう。
釜峰城址、本丸の土塁絶壁の端に社が鎮座している、戦後、荒れ果てたんだとさ、再建したのがざっと20年前、それから逐次整備を進めて行ったものだそうな。
もう、軍神をウリモノには出来ないね、「交通安全」「心願耐達」「気力の充実」これを祈願すると変更したんだそうな。
ありふれてるが、普通でええのだよ、祈願すれば戦地から生きて帰れる、戦の神、こんな神社に戻っちゃいけないね。
ここから先は山道になる、植林の中をジグザグに切り返しながら進んでいく。
けっこう登るよ、かなりの傾斜だよ。下から見ると鋭角の山、歩けばその通り激しく抵抗する山だよ。
切り開かれた一帯に出た。ここが釜峰城址なんだろうね。
このあたりは二の丸あたりかな、看板がある「昔の井戸跡、柔らかいから近寄るな!」 そりゃ、危ない。
釜峰山頂上土塁を登って、ここが本丸跡なんだろうな。
湯木氏の城ということだが、毛利に臣従し、関が原で負けて長州に行った、さぁて、どの程度の身分石高だったんだろうね。
伐採してあるので、展望がええな。西城川の川筋が見える、馬洗川の川筋が読める、すると、あのあたりが三次の市街地、その南に賀茂世羅の広島県南部台地の脊梁が見える。
可愛川の川筋が見える、JR芸備線が広島に向かって、視線の果ては白木山あたりだろうな。
さて、看板に言うには、本丸の背後に七条の掘り切りがある、こんな例は他に無い、周囲は絶壁急斜面で、なんちゃらかんちゃら
ふぅむ、掘り切り目指して、尾根を進んでみよう。
尾根からどすんと切れ落ちる、なるほど、尾根に鋸の歯のように横に切れ目を入れて通り難くしてある。
釜峰山から福田頭を一旦はどすんと落ちるが、また登り尾根になる、切れ目を入れても防備に有効なのかしら。
これでは攻め手の位置が高いのだよ。高いとこから矢を受けると防戦に苦労するだろうな。
攻め手は必ず尾根の道から来ると決まっているのかい、横手に迂回されると難儀することだろうね。
城址の案内が果てると、あとは頂上までの道だね。テープなどの印しがほとんど無い。
尾根をたどればええのだからそんなに難しい道ではないね。
はい、ここが釜峰山の頂上。
梢を透かせると、福田の頭が見える、その向こうは比婆山だろう。位置を変えて、梢の穴から吾妻山も見える。
八国見山のとんがりが見える、後ろの白い山は大万木山などの県境の山なんだろうな。
釜峰山から八国見山をさて、帰ろうか。
おっとっと、登るとき、位置の見定めをおろそかにしていた。ここの分岐はどっちだったかな。
たぶん、こっちへ下りるはず、おぉそうだ、GPSを持っていたんだった、登りの道をそのまま辿れば問題ない。
とんとんとんと下りていく、下りる時に山の傾斜は実感できるもんだね。
アズマヤ、光明寺跡のところで別の道に入ってしまった。
位置関係からして、このまま行っても問題ないだろう。
予想通り、二の鳥居・祠の前に出てきたよ。行きの時、どっちへ進みか悩んだもんだが、どっちへ進んでも正解だった。
「釜峰山、昔は戦の守り神」、このタイトルはもひとつだなぁ、「南の展望、釜峰山」こっちのほうが似つかわしいかな。

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詳細地図、地図上でどこで撮った写真なのか解ります




カシミール展望図をつけました。立体的に地形が浮き出て一目でイメージを把握できます。


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