1999年12月23日
しぇるぱ単独
山域:生駒

高取山、栢森から芋ケ峠へ

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栢森の女型勧請縄
稲淵の男型勧請縄
栢森のここから山道が始まります
猿石
飛鳥の石舞台古墳、横目で見過ごしてこれから高取山へ行くんだよ。
高取山は壷坂寺からのコースは何度も通ったよな。別のコースで行きたいね。昔、栢森へ降りたことがあったが、今日はここを登りに使おう。
ここだここだ、栢森集落の手前勧請縄がかかっているところ、ここは道がふくらんでいるし、駐車するにも気兼ねがないね。
勧請縄について薀蓄をひとこと、ちょいとつきあってね。
注連縄と勧請縄は似たようなもんだけど、勧請縄と名乗るのは奈良県と大阪府以外に見たことが無い、ほかであったら教えてください。
神前仏前で勧請縄は見たことが無いよ、結界を示すものじゃないかな。ここより邪悪悪疫など侵入を禁ず、という清浄の宣言だと思うよ。
ここの勧請縄はユニークなんですよ、男型と女型の両方があって、男型は下流の稲淵に、女型はここの栢森にあります。どう違うかって?見れば一目でわかります。
標識は高取城へ、道は草かぶりもなく順調にとんとんと運ぶね。たちまち稜線について、あとは稜線歩き、伐採地から多武峰方面が見える、見慣れた多武峰ではなく、竜在峠へむかう山容なんだね。
このへんから石垣がちらほらと現れる、そうか、こっちは宇陀口というのかい。猿石、ここで高取の町からの登路と合流する、大きな倒木があって猿石は倒木越しにのぞきこまなきゃならんね。
石垣はどんどん出てきます。廃藩置県後、城を売ってしまったとういうから絶句だね。財政は破綻していたからその金で借財の整理をしたのだろうか。
買ったほうは風呂の焚き付けにしてしまった極端もあったそうで、領主領民の結びつきははたしてどうだったんだろね。
天誅組の乱、というのがあったよね。幕末、攘夷浪士が大和一帯を転戦して、高取城を攻撃したのだが、高取藩は撃退したようだね。これだけの城郭で一握りの浪士に敗退するようでは値打ちもなにもあったもんじゃない。
なんにもない城跡、これだけさっぱりとしていると荒城の風情があるね。向こうは吉野大峰の山々だね。雪雲が降りてて山座の同定は判然としないが、屋根に雪をかぶって蔵王堂ははっきりとわかる。
天守閣広場
引き返して、大手門の分岐に帰ろうか。高取からの道、壷坂寺からの道の合流点に芋ケ峠への入り口がある。
倒木の輪切りと伐採の枝で道は判然としないね。雪道を踏んでる跡があるんだが、いつのまにかなくなってしまった、この雪以来、わたしが始めてのようだ。
道はよいのだが、倒木がすごいね。去年の室生寺被害の時の台風のせいなんだろね。倒木に雪が積もってチベタイなぁ。もぐったり、またいだり、枝の網目を抜けたりで行かなきゃならんよ。
よくしたもんで、あまりに倒木が激しい個所はバイパスがついている、へぇぇ、けっこう人が歩いているんだ。
前に歩いた時は、大変な目にあったな。
弁当に昨日の栗ご飯を詰めていったのさ、食べる時、なんかヌメルなと思ったが、案の定、ムカムカしてきた、のどの奥に指を入れて全部モドシたが、間に合わなかった、食中毒。モドスは、クダルはで、ほうほうの目にあったことがある。
山の中でたったひとりだから頑張るしかない、どうにか青い顔のまま駅までなんとかたどり着いた不覚があります。
林道から高取山を
あれれ、林道の出た。いつだったかの昔、ここを歩いたもんだが、その時はこんな林道は無かったよ。山道はつぶれてしまったよ、どう辿るのかわからない、仕方が無い、林道を歩くか。
えらく廃れた林道だね、ここんとこ未使用状態じゃないか。山掃除して苗木を植えたまま、その後は使っていないのじゃないのか。
ニッセイの森、ミノルタの森、こんな看板が出ているよ。分収造林なんだな。経費は出してもらって収穫を分け合おうという営林局の方針だな。伐採の時期に、はたして営林局は存在するだろうか。局はあっても、森林労働者は存在するだろうか。
植林したての林道にも取り得はあるね。吉野の山々が丸見えだね。
芋ケ峠に到着、林道の入り口には門扉が閉ざされているよ。ええと、もともとの山道はと、あったあった、こちから入る分には踏み跡はちゃんとあるようだね。
残りの道は舗装道路を歩くだけ、つまらないからここまで。

大画面の詳細地図


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