2009年12月12日
ととろさん、鴨さん、みーとさん、ほーちゃん、しぇるぱ(お山歩くらぶ
山域:広島県安芸高田市

毛利元就の山、郡山城址

 

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郡山城址を正面に今日はお山歩くらぶの例会の日で、登る山はちょっとゆるめの山なんですよ。
毛利元就の山、郡山、麓から営々と登る城もあるが、この城はあっという間に登れてしまう。
集合場所は
YOUMEゆめたうん、ええネーミングだね、YOU&MEでゆめたうんとはよくぞ名付けた。
駐車場が建物の前にも後ろにもあるんですよ。
それぞれの駐車場へばらばらに集まってしまった、これは事前の連絡ミスだった、ごめんなさいねぇ。
駅の北口南口などはしっかり確認するもんだが、駐車場までは眼が行き届かないよなぁ。
さぁて、出発、城の西側の歴史民俗資料館の方向へ歩いて行こうか。
歴史民俗資料館城郭のような建物で、中の収蔵物も立派なのだろうが、入る気がしなくてこれまでずっとパスしているんですよ。
過去の経験からいうと、各地の歴史民俗資料館、どこを見ても面白いとは思えないのでね。
国立のミュージアムで全然興味が湧かないのもあった、マレーシア、コタ・キナバルのミュージアム。
ペキンの故宮博物院、タイペイの故宮博物院、マレーシアでもそうだけど、武器武具が展示されていた記憶がない。
日本のミュージアムには必ず刀剣があり鎧がある、コーナーだったり一室だったり、必ず展示物がある。
毛利家発祥の歴史民俗資料館だもの、刀剣鎧槍鉄砲武具馬具は大量に展示してあることと思うよ。
坂道を登ると、安芸高田少年自然の家があって、史蹟郡山城址の石碑があり、毛利元就の銅像がある
郡山城址の石碑もともとはここが御里屋敷の跡で、晩年にはここで元就は暮らしていたのだそうな。
谷川の流れを公園化して、水辺公園、親水公園という作りになっている。
階段が整備してあり、石伝いに流れを渡れるように整備されている。夏のこどもにはうれしい仕掛けだね。
谷川を離れてここからが毛利家の墓所の区域、鳥居を潜ればそこから始まりなんですよ
毛利家墓所への参道の途中に麓の住民の墓地があるんですよ。これには驚いてね。注目してね。
城が廃棄されれば、麓から民衆が遠慮なく入り込んでくるんだよねぇ。
毛利のお殿様を慕っていた、そうかねぇ、敬慕していれば城跡を侵して墓地を作ろうなんて思わないのじゃないかね。
谷川の水辺公園墓地が密集しているところを見ると、恐る恐る反応を見ながら侵食して広げていったんだろうね。
お殿様は遠く萩・山口にいるから、知ってはいても、藩が違うから手出しが出来ず、じっと我慢だったんじゃないの。
ここから先は毛利家の墓所です。
下の段に先祖の墓、勃興期の時代の墓があって、上の段に毛利元就の墓がある
中国の太守、125万石の大大名の墓にしては規模が小さいと思うよ。
不思議なのは、墓所から見上げると、墓所の上に道があるのですよ。道から墓地が見下ろせる。
今でこそ道があって、堂々と普通に歩いているが、その時代はこの道は禁忌の道で、限られたひとしか歩けなかった、のではなかろうか。
毛利元就の墓そんなことはどこの文献にあるのかね。根拠はなにかね。
わたしはアマチュアです。学者じゃないよ。思ったことをそのまま述べてるだけなのです。
アマチュアは仮説を立てっぱなしでも、それでええのだよ。論証するのがプロの仕事なんだよ。
墓地の隅には、百万一心の石碑がある。一日一力一心と読む読み方もある。
登山口の矢印に従って、墓地を見下ろす尾根の道を登って行く。
嘯岳禅師の墓がある。お殿様を見下ろす位置に葬られているのですよ。なんか違和感、これでええのかいな。
元就の時代の葬送儀礼は知るべくもないし、ひとを寄せ付けない閉鎖空間だとしたら、そんなことは構わないのかもしれない。
百万一心の石碑他家のお殿様で、墓所が見下ろせるのはあったかしら、知らないよねぇ。極めて稀な例だよねぇ。
尾根に出て山腹を巻いてまた尾根に出る。これを何度も繰り返す。
この先に道標があるから城跡はもうすぐだよ。
平場に出て、ここが御蔵屋敷跡、米蔵があったのか武器庫があったのか、蔵が立ち並んでいる姿が想像できる。
で、ここが二の丸跡、下がった位置に三の丸跡、本丸はここから登って行くのだよ。
御本丸跡と石柱があって、そこでゆっくり昼食にしたのだが、だぁれも登山客観光客は来なかった。
道はつるつるに磨かれていて、絶えず訪問客がある証拠なのだが、今日は雨上がりだもの、エアポケットみたいな日なんだね。
本丸へ御蔵屋敷跡の広場が交差点、ここから清神社へ降りていく道がある。下りはこっちから降りよう。
勢溜の段跡があって、うむ、いかにも軍勢をそろえて並べるのに向いた広場だ。しかし、ずいぶん狭いねぇ。
尼子の月山富田城も見たが、そっちのほうが巨大で、富も権勢も誇らしげで、この城の城主がなんで負けたのか理由がわからない。
この郡山城も尼子の軍勢に取り巻かれたことがある。尼子の兵糧が尽きて引き返したのだそうな。
軍勢の強弱は将兵の強弱ではないのかもしれないね。兵站の補給の差で強弱が決まるのかもしれないね。
こっちの道のほうが幅広で手入れが行き届いている。
やはりこっちが大手の道で、墓所からの道は隠れ道だったのだ。
二の丸下で何度も道は折れ曲がって、展望台に出る。
展望台の屋上からは安芸高田、吉田の街が見えている。
ゆめたうんの駐車場から見て、中腹に旗ざおが2本立っているのが見えるのだが、その位置にいるのだよ。
降りたところが
すが神社、祭神は素戔嗚尊すさのおのみことで、出雲から素戔嗚尊信仰は流れ出ている。
出雲の神は大和に征服された神なんですよ。征服された神が大和にまで押し出して隆盛するのはなぜなんだろうね。
熊野神社、八坂神社、牛頭天王(祇園社)、いずれも祭神は素戔嗚尊なんですよ。
ここの清神社で有名なのはサッカーのサンフレッチェで、サンフレッチェはシーズン開始に必ずここに参拝するんですよ。
清神社なんでサンフレッチェの守り神はここなのか。
吉田サッカー公園があって、サンフレッチェのクラブハウス・グラウンドが近所にあるからなんだよ。
歴史民俗資料館で竹の杖を借りたので返しに行かなきゃね。そっち経由で帰ろうね。
さて、駐車場まで戻ったぞ。よいお年をぉ、また来年ね。
参考 郡山城跡から高小屋山 (2007年1月30日)

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詳細地図、地図上でどこで撮った写真なのか解ります




カシミール展望図をつけました。立体的に地形が浮き出て一目でイメージを把握できます。
でも軌跡を示しています、高低を示す断面図も表示できます


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