2010年10月28日
しぇるぱ単独
山域:広島県安芸高田市

毛利尼子、勝敗逆転、青光井山

 

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安芸高田市歴史民俗博物館戦国時代、合戦の場面を考えると、両陣営の本営は近いと思いますか、離れていると思いますか。予想していた以上に近いのが常態なのだそうです。ただし、鉄砲が普及してからは事情が違ってくるがね。
毛利元就の郡山城へ尼子が攻めてきてべらぼうな接近戦になったのですよ。尼子が本陣を構えたのは異常に近い位置なんですよ。
郡山城へ登って思ったのは、これは近い、物音・話し声が全部聞こえてしまうほど、両陣営は近いじゃないか。
尼子は、郡山城の西側に、多治比川を隔てて、青山、光井山に本陣を置きました。総称して、青光井山の本営と呼ばれています。
三万人の軍勢というから、当時の中国地方としては膨大な軍勢です。
同規模の軍勢を集められるのは、他には大内しかいませんでした。
毛利方は、数千の兵力です、近在の百姓を郡山城に収容しました。備蓄食糧もろともにです。毛利は大内の傘下にいて、救援を求めています。
青山・光井山尼子方は、兵站が苦しくなってきました。東出雲から食糧を供給するのは並大抵のことじゃありません。
現地調達しようにも、百姓は全部郡山城に籠って、徴発できません。
9月に郡山城に進軍して、一進一退、食糧が尽きているところへ、大内から援軍が来て、尼子勢、全滅の危機にさらされます。
12月、尼子勢は雪の中を出雲へ撤退しました。負け戦です。これにより、尼子は安芸、備後、石見での覇権を失ってしまいました。
これ以来、攻守は逆転して、尼子は出雲・伯耆だけに縮んで、毛利の攻略を受けて、尼子は滅んでしまいます。
毛利・尼子の攻防戦は、この郡山城の合戦の勝敗がターニングポイントでした。
地方領主・国侍は強いほうに味方するので、オセロの黒白がひっくり返るように、みるみる逆転していったのです。
安芸高田市役所青光井山に登ろうと調べましたが、ネットには何にも情報がありません。
安芸高田市歴史民俗博物館、郡山城、毛利家墓地の麓にあります。ここで聞けばわかるだろう。
こんにちは。教えて下さい。尼子が本陣を構えたのが青光井山ですよね。青光井山には登れますか。登る道がありますか。
玄関の外に出ましょう。正面の山を見てください、左に見える山が青山、右に見える山が光井山です。青山・光井山を結ぶ峠から登る道があります。
ありがとうございます。登る前に博物館の中を見てから行きます。はい、300円。
道を教えてもらったんだよ。イズミを過ぎて、市役所を横目に見て、ホームセンター・ジュンテンドーの角を曲がって、山沿いに進む。
青山の山裾をまわって、青山と光井山の間の谷の道を進む
郡山を振り返る谷の入口で振り返ると、郡山は目の前で、背後に甲山の姿が見える。
尼子が甲山に本陣を構えたなら、そっちのほうが山が高い。毛利元就はそれを避けるため、甲山で待ち伏せしていると偽の情報を流したのだそうな。
尼子はその流言を信じて、甲山を避け、青山、光井山に陣営を敷いたということだ。
青山、光井山のほうが標高が低い。郡山からは見下ろして観察できて、対策が立てやすい。尼子は謀略に乗せられてしまった、ということのようだ。
民家が続くが、新興の分譲地で、青山だの光井山だの、住民はほとんど知らない。道を聞いても、知らない、行ったことがない、の返事ばかりなんですよ。
民家が尽きたところで、舗装路には通行止めのカラーコーン、地道には制限がないから進んでみるか。
分譲のひな壇造成をしていて、とても売れそうにないから、途中で工事を放棄したような景色だよ。こっちへ進んでもだめだろう。
カラーコーンで通行止め引き返して、舗装路を進む。
道の両側を注目しながら歩いて、取り付き点があるかどうか。
あった。道が登り切って、この先は下り坂になる地点に、踏み跡があって、赤いテープがある。ここに違いない。
進んで行く方向は光井山の方向。まだ踏み跡だったり、これはもう道と呼んでもよかったり、入れ替わり繰り返しで続いている。
昔々の仕事道が誘惑するが、赤いテープが誘導する登山者が付けた道をたどったほうがよろしい。
道は不明な部分もあるが、赤いテープ、鉈でぶった切った木の切り株、これを探しながら、歩き易いところを選んで行く。
最後にぐっと登りの傾斜があって、突然、平らな平地に飛び出す。
ここが光井山の取り付き点平地には石が敷いてあって、古い大木を祭っていたと思える。樹の根元に祠があったのかもしれない。
何を祭っていたか、それは当然、尼子の魂魄を鎮めるためのものだろう。
ここは最高地点だから、当然、三角点もここにあると思い込んでいました。みつからないけど、どこかにあるのだろうと思い込んでいました。
帰って、カシミールにGPSの軌跡を落として見ると、ありゃりゃ、三角点はこの先、もっと低い位置にあるのだ。
よくあることだね、最高地点必ずしも三角点ならず。ま、ええか、三角点を踏まなくても、最高地点を極めたことには違いないもの。
頂上は平削・掻き揚げの土木工事が施されているようだし、頂上直下に幅広の道が通っている。
この道はどこへ行くのか、たどってみると、藪に覆われて姿を消してしまう。当てにはできない道のようだよ。
登山道来た道を引き返そう。赤いテープ、鉈でぶった切った木の切り株、これを確認しながら下りて行くと間違いない。
ネットの情報はほんの一部分なんですよ。ネットで語ることなく山に通う人々が大勢いるんですよ。現地に来てみれば、そのひとたちの痕跡が、踏み跡があるのだよ。
舗装路が見えて、入った位置と3メートル、5メートルずれて道に戻ったぞ。ひとそれぞれで誘導するから赤いテープも違う位置にあるのは普通のことだよね。
さてと、青山への取り付きはどこなんだろう。
峠から先の下りの道を下りてみる。この先は道が崩壊して通れない。崩壊現場は長いようで、こっちから青山への取り付きは諦めたほうがええだろうな。
さっき登りかけて引き返した地道の先にあるのかもしれない。
もう、ええよな、という満腹感が湧いたので、青山はやめることにする。たった二時間の道でも満足感に浸れるもんだ。
光井山頂上言い換えると、もう一回、藪の道を探すその気が消えてしまったということだ。
麓に下りて、上流に橋があるかもしれない。上流から戻ることにしよう。
このあたりは川辺で、毛利・尼子が押したり引いたり、合戦が繰り返されたのだろうね。
これはいかん。道が途絶えた。川は堰で阻まれて、こっち側の道は無くなってしまった。
下流に戻って、吉田の市街地まで戻る。そのまま道を返して博物館の駐車場まで帰りました。
尼子が三万人の軍勢で押し寄せた、といっても、あちこち分散して、各方面に手当しなきゃならない。
郡山山麓に三万人が密集していたというわけでもないのだ。中核軍だけが対陣していたのだろうな。
多治比川上流へは道がない尼子の軍勢が兵站の輸送に力を注いでいたら、尼子の軍勢は腹が減らなかった。毛利は壊滅していたことだろうね。
そこが中世の軍勢なんですよ。ひたすら合戦で、身を立て名をあげ、手柄の立てようもない、下積みの
輜重しちょう、輸送を軽んじてしまうんだよね。
織田軍、豊臣軍の将兵とは違う。兵農を分離した軍制とは程遠いのだよ。
参考 郡山城跡から高小屋山 2007年1月30日
    毛利元就の山、郡山城址 2009年12月12日

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詳細地図、地図上でどこで撮った写真なのか解ります




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