2011年8月24日
しぇるぱ単独
山域:広島県三次市

三次みよし三山さんざんのひとつ、比叡尾ひえび

 

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熊野神社高谷山、比熊山、比叡尾ひえび山、この三つが三次三山と言われています。
三次盆地の西と北に目立つ山で、東と南は丘陵地帯で山らしい山は見当たらない。
高谷山、比熊山、この山は三角点もあり、登山路もあるので有名です。
ただし、比叡尾山は三角点もなく、やぶに覆われた山で、登山対象からは外れていました。
ある日、なんの気なしに比叡尾山を見上げると、おや、頂上が透けて見える。いつのまにか手を加えてあるのだ。
聞いた話では、熊野神社、岩屋寺の奉賛会である王和会がボランティアで伐採して登山路を開拓してくれていたのだそうな。
これは行かなきゃならない、登らなきゃならない。
比叡尾山直下の熊野神社の駐車場に車を置いて、あの山に登るのだね、と見上げながら出発する
恵木谷山裾の道があって、丹波木工建設の曲がり角、ついついあせって早めに曲がってしまった。
ほんとは、このまま歩き続けて、岩屋寺谷の流れと出会うまで歩いたほうがよかったのだがね。
谷川の流れがあるが、これは恵木谷、三面貼りにコンクリートで固めた流れで、谷川とは言えないね、放水路と呼んだほうが当たっている。
山に取り付いたところで谷から離れて山腹を行く道になる。
道の両側は古い墓地で、現役の墓地なのやら、古いご先祖様の墓地なのやら、詳細不明ながら墓地が連綿と続いている。
舗装の林道に合流する。林道との合流点はかなり登った位置で、ここからではなく、林道のスタート地点から歩き始めるほうが気持がええでしょう。
林道を下って、次の谷まで降りて行く。次の谷が岩屋寺谷、この谷に沿って岩屋寺への参詣道を登って行こう。
谷の出口に毘沙門堂がある。前に、たまたまお参りの日で扉は開け放って大勢でお経を唱えているところに出会ったことがある。現役の毘沙門堂なんだよ。
毘沙門堂このまま参道を進む。草刈りがしてあって安心して歩いて行ける。
道が草に埋もれていると、マムシが怖くて一歩進むにも恐ろしいが、平らに刈ってあるので安心して歩いて行ける。
仁王門が現れてくる。房を覗いて仁王を見ようとしたが、スズメバチが房内から出入りしている。向かって左の房が要注意だよ。
これはいかん、君子危うきに近寄らず、静かに通り過ぎるのが賢いというもんだよ。
大きな岩壁があって、岩壁の下に石仏が並べてある。振り返ると、反対側の斜面には石仏がたくさん据えてある。
この先には、分岐がある。鳥居があって、この先には白山大権現剣大明神が祭ってある祠があるのだ。
祠に行くには、切り立った岩場を越えなきゃならない。雨上がりで岩が濡れている今日は行かないほうがええだろう。
ほんとはね、行くのは一度で十分、二度も三度も行きたいような場所じゃないよ。あれは遠くから拝むものだよ。
仁王門谷を渡って道は折れ曲がっている。地蔵堂があって、泥人形の地蔵が棚にいくつもある。壊れた泥人形が床に散乱している。
ここからはブルで整備した道で、ここからはもう境内に入っているように思える。
境内に入る手前で鎮守の祠が見えている。開放された岩場に祠が建ててあるのが見える。あれは遠くから拝むものだということが納得できたでしょ。
境内に入って、鐘突堂の前から視界が開けている。左右の山で塞がれて南方向しか見えない。
足元の八次から視線を伸ばしていくと、岡田山の横に上田明神山、津田明神山、黒川明神山と、明神山が連続しているのが見える。
岩屋寺の本堂と庫裏があって、通常は住職は下に住んでいて無住の寺になっているのだ。
備後西国三十三観音霊場の札所で17番目なんですよ。平成16年に参拝したのが始めてです。
岩屋寺その同日の2004年1月25日、三次、岩屋寺の裏山、ぐるり一周、2008年5月3日、三次、岩屋寺の裏山、ぐるり一周2をアップしております。
岩屋寺を出てすぐに展望所への分岐がある。
水平な道で、展望所まですぐそこなんですよ。アズマヤがあって岩屋寺山公園と名付けられている。
ここは尾根の上だから展望が広がる。岩屋寺では三次の市街地中央は見えなかったが、ここからは高谷山の下に広がって見える
比熊山は見えるかって? 比叡尾山から連なる峰に阻まれてここからは見えない。
もとの分岐へ戻って林道を歩いて行く。
途中に比叡尾山城主の墓というのを案内しているので寄ってみた。
宝匡印塔、五輪の塔形式で古い墓のようだ。石板様式の墓があって○○院○○居士、この墓はそれほど古いようには見えないのだがね。
岩屋寺公園岩屋寺のほかに、廃寺が近所にあるのだそうな。廃寺の墓地かもしれない。
比叡尾山城主の墓というのは未確認ということで、もとの道へ戻ろう。
岩屋寺へ続く道は林道と合流する。峰通しの林道があって、そこから岩屋寺への道が分岐しているのだよ。
岩屋寺谷を歩く参拝者よりも、自動車で林道を登ってくる参拝者が多いのは、当世だもの、当たり前のことだよ。
その林道を歩いて行って、大きく曲がるポイントに分岐がある。道に綱が張ってあってカラーコーンで進入禁止を示している個所のことだよ。
その先は、ブルドーザーが土を押し出したデブリになっていて、道は未完成で、土管の横にひとが歩く道がある。その道はちゃんと草刈りをしてある。
池があるのだ。池の水は、コースの最初に取り付いた恵木谷に流れるのではなく、西の谷、熊野神社へ流れる王子谷のほうへ流れるのだ。
池から先は材木を輪切りにして階段が続いている。
城跡への分岐人工的な土木工事の跡が見えていて、ここは城跡なのだと教えてくれる。切り均した個所あり、竪堀、堀切の跡あり、複雑な地形を表現している。
郭跡らしい段々を何度も越えて、意外にも、三の丸、二の丸風な広場が出現する。山火事に備えての防火用水まで用意してあるよ。
草木に覆われた城跡を刈り払うのは大作業だと思うよ。毎年刈らなくては保全できないのでまさにオオゴトだと思うよ。
意外に広い。郭が立ち並んで兵舎があったのを想像すると、かなり大勢の将兵を抱えていたのだと思うよ。
毛利家勃興以前の時代なんだよね。毛利尼子の角逐時代に相当する。
おそらく、毛利に味方し、尼子に鞍替えし、時の勢いの強いほうに身を寄せたことだろうね。当時はそれが当たり前の時代だったのだよ。
この城の支配者は三吉氏ということで、さて、この三吉氏、城の規模、構えからして、さぞや合戦には強かったと思うでしょ。
功名を挙げた記録はあるのかしら。一翼を担う武将としての記録はないし、招集に応じての与力働きばっかりだったのではなかろうか。
比叡尾山城跡城の規模は大きくても、抱えた将兵の数はそれほどでもなかったのかもしれないね。
比叡尾山は頂上が平たい鈍峰なのだが、頂上からは切り立った斜面になっている。その斜面を切り開いて郭に仕立ててあるのですよ。
そこも伐採し、草刈りし、城を発掘するように手を尽くしてある。
下へ降りてみて、ひょっとすると、熊野神社まで切り開いてあるか、と向ってみたが、切り開きは途中で終わっていた。
その下の段から水平に進む戻りの道が切り開いてある。城の足許を巡回する巡視路なんだと思うよ。
城を取り巻く道かな、谷を越える道かな、分岐らしいものがある。谷へ向かったが、谷で道はやぶに埋もれてしまった。
引き返して、城の下を周回する巡視路と思える道を進む。
岩場があって岩場の上が平らになっている。瓦が転がっていて、瓶子も転がっている。ここは祠の跡なのだろう
岩屋寺公園分岐ここで味方の勝利を祈ったのやら、敵を呪詛したのやら、どこの城を見ても、城の祈祷の場というのは谷の崖が多いと思うよ。
やはりこの道は城を取り巻く巡視路で、登った道まで戻ってきた。
池の傍を通り、もとの林道まで戻ってきた。
あとは林道を下って行くのだが、岩屋寺への分岐を過ぎ、岩屋寺山公園、展望所への分岐を過ぎ、ここから先は道を折り重なって下るのだよ。
下の道を見下ろすと、二重、三重に道が重なって見えている。ジグザグが直に見えるのはすごいでしょ。
恵木谷から登って来た分岐を過ぎ、岩屋寺谷の出口、毘沙門堂の前まで戻ってきた。
岩屋寺谷の橋を渡り、すぐもう一度橋を渡る。
岩屋寺谷の流れに沿って降りて行って、次の橋のところで右折する。説明はいらない、三差路だから右折するしか道はないのだ。
あとは自然に道の流れにしたがって進むと、熊野神社の前までたどっていける。
熊野神社から眺めると頂上の切り開きは確認できないが、ちょっと離れると、頂上が透けているのがよくわかる。
山は低いけれど、登ったという満足感はじゅうぶんに満喫できたのですよ。

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詳細地図、地図上でどこで撮った写真なのか解ります



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