2008年10月3日
しぇるぱぁに、しぇるぱ
山域:広島県廿日市市

石段を行く、宮島弥山2

 

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大鳥居前からあんた、ちょくちょく宮島に行くけどね、わたしは宮島の山に登ったことがない。そうかい、いずれ一緒に登ろうな。
さぁ、今日が一緒に登る日なのだ。
あのね、平成17年(2005年)の台風災害で白糸川の谷が土石流でズタズタになって、登山道も壊滅したんだよ。
それでね、災害復興工事も大詰めで、10月1日からは白糸川の谷の道も通れるようになるんだよ。白糸の谷から宮島弥山に登ろう。
駐車場に車を置いて、連絡船で宮島へ渡ろう。松大汽船、JR汽船、どっちでもええ、次に出る船に乗ればええ。
さぁ、ここが宮島桟橋、桟橋を出るとすぐに鹿が出迎えしてくれるね。
ここが大鳥居の前、ここから見てみ、厳島神社の回廊の後ろに寺院が見えるだろ、あれが大聖院、その背後は谷になっている、そこを登るんだよ。
厳島神社はいつもパスしているなぁ。今回もパス、神社の背後から路地が続いているだろ。大聖院の参拝路で門前町になっているのだよ。
大聖院山門路地には神社の神官、雅楽の奏者などの住まいが点在している。
この宮島では厳島神社が最高の権威だと思うだろ。神社には寺がサポートするのが普通で、それを神宮寺というのだよ。
いつの間にか大聖院が別当職を襲名し、社務を大聖院が簒奪して、神社の決定権は大聖院に移ってしまったんだよ。
弥山の山頂は厳島神社の支配だと思うだろ、違うのだね、大聖院の境内地なんだよ。
明治の廃仏毀釈でご破算になるのだが、中世近世の宗教事情はこんな風だったのだよ。
ここが大聖院の山門、石段を登ると、本堂、不動堂、塔、と隆盛を極めているだろ。
本来、全島が神社の境内なのに、一角に食い込んで、逆に支配するまでになったのだよ。パワーエネルギーは凄いものだね。
中国観音の巡礼で、大聖院も札所なんですよ。その当時、検索に検索を重ねて、知らなくてもええ裏の事情まで知ってしまった。
白糸川の荒れた川筋枝折戸を抜けると登山道のはずだが、ありゃ、戸が閉ざしてある。水害で谷が崩壊したから、抜けて通ることはもう出来ないんだろうね。
もとの山門まで戻って登山道を歩くことにしよう。
あれが白糸谷なの?石が並べてあって石庭のような感じねぇ。
へぇぇ、転がり出た巨石を持ち出さずに、その場で並べ替えて風景を造ったんだねぇ。庭師の心意気だ、やるもんだねぇ。
砂防ダムがあるが、普通、砂防ダムはコンクリートの塊りで角ばっているもんだよねぇ、石を重ねて柔らかな砂防ダムに造ってある。
巨大な岩塊がむきだしになっている、その手前が公園風になっていても、荒々しい風景に変わりはないよね。
振り返れば、大聖院が谷の出口にあるのが見える。大鳥居も見える。
谷から離れて稜線山腹を歩いている。足元は石段なんですよ
崩壊地の岩この石段は江戸時代・明治の頃の石材ではないような気がする。異様に規格がそろっているのでねぇ。
のみたがねしかなかったその当時には石の割れ方も様々だったことだろう。
削岩機、ドリル、矢、これを使ってインド・アフリカで規格品の石材が量産されている。どうも輸入品のようなにおいがする。
石段にケチつけているのかい。いえいえ、今でも続けてメンテナンスに精力をかけている努力に感歎しているんですよ。
坂道の下から上まで、大量に石段が連なっているのだよ。ただごとじゃない量の石段なんだよ。
これもみな、大聖院のちからだと思うし、もとはと言えば、檀家・信者が喜捨したんだもの、その累積は大したものだと思う。
一歩一歩踏み締めるのに膝にくる、ええい、石段がなきゃもっと楽なのに。
そうではないよ、ひとが歩くと踏み跡ができ、それに雨水が流れるのだよ、流水は道をえぐって荒らしてしまう。荒れを防ぐのが階段なんだよ。
砂防ダム階段の主目的は水勢の制御なんだよ、階段とは砂防ダムが連続してると考えてね。歩くのに、バネ・踏み切りに使うのは副次効果なんだよ。
アズマヤがあるんだが、大勢のひとが休憩している。あんまり大勢いると割り込みにくいもんだよね。休憩せず歩いて行こう。
土石流での崩壊地が近づいてきて、目の前に広がる。岩に筋があるのは岩脈だろうか、摩擦跡だろうか。
立入り禁止の立て札に「平成17年9月6日の台風14号の土石流により、歩道が流失しました」
そうか、この歩道は新しく付け替えた歩道なんだねぇ。
下を見ると、滑り台のような崩壊の跡が見える。土石流でこれほどえぐって持ち去ると、下流では土石流で埋もれてしまうのは当然だよねぇ。
峠の下で土砂水流の溜まりができている、溢水口に砂防ダムが設置されている。
もちろん、石を積み上げた砂防ダムで、人間の顔のような、愉快な砂防ダムに造ってある。
仁王門跡乗っ越し、峠に、建物跡がある。ここに仁王門があったのだ。
ネットで検索すると、平成16年、15年、どちらかの年に、仁王門は台風で倒壊して、それ以来、再建されていないのだよ。
前にわたしがこのコースを歩いたのが2004年・平成16年、そんな生々しい感触はなかったから、倒壊したのはその前年15年のことではなかろうか。
この先はもっと石段の段差が高くなるのだよ。弥山へむかって傾斜が急になるのだ。
ここで分岐、参拝道は霊火堂・山上の本堂へ向かうようになっているが、どうせ来た道を引き返すことになるので、別のショートカットの道を行くことにしよう。
干満岩というのがあって、岩に穿った穴に溜まった水が干潮満潮にしたがって増えたり減ったりするのだそうな。
干潮時満潮時までここに滞在して確認するわけにもいかない、そうかそうかと肯いて通り過ぎよう。
岩の間を潜って山頂に出た。ここが宮島の弥山なんだよ。
宮島弥山三角点へぇぇ、山頂には岩がごろごろ点在しているのね、こんな風景とは知らなかった。
ここで食事、鹿につきまとわれて、しっしっと払いながら食べなきゃならない。
ザックを置いて記念撮影、鹿のやつ、ザックに首を突っ込んで袋を強奪して行った。ストック振り上げて追いかけて、おどしてやっと取り戻した。
鹿のやつ、乞食もするし、強盗にも変身する、人間に馴れ過ぎて、ひとと獣の距離が近過ぎるのが問題だね。
岩の間を潜って、山頂から降りて行こう。
山の肩には三鬼権現堂、霊火堂、山上の本堂など建物が並んでいる。
霊火堂とは、1200年間、ずっと弘法大師の火を守っていた、ということなんだよ。
それがね、2005年に火事で焼けてしまったのだよ。これは再建新築した建物なんだよ。火のお堂だけに焼けるのは珍しくない、何度も焼けては再建したんだとさ。
霊火堂2004年にここを通ったのだが、前に見た霊火堂と今の霊火堂を比べるとね、外観は同じだが、中は違う、一階の天井が前より高いのだよ。
炉を昼夜焚き続けているから、柱や板が輻射熱で炭化して熱を抱えてしまうのだね、火種から離せば、その危険を避けられる、だから天井を高くしたのだ。
炉に釜が架けてある、湯を汲んで飲めば延命長寿が叶うんだとさ、飲んでみたが、白湯だった。さぁ、これで長寿が約束されたぞ。
道を降りて行こう。この道はロープウェイに続いていて、町歩きの靴のひととすれちがう。
道の表面は、土混ぜセメントなのか、土と消石灰を混ぜた
三和土たたきなのか、コンクリートほど反発が高くなく、柔らかいが雨の浸入を防ぐ、そんな道作りにしてあるね。
ハイヒールでやってきても歩けるように、ロープウェイの会社がメンテしているのだと思うよ。
ここが紅葉谷へ降りて行く分岐だよ。
ここからは一挙に下へ下へと降りて行くんだよ。
紅葉谷砂防ダム15号堰堤と案内があるだろ。砂防ダムのことだよ。何度も山抜けした暴れ谷で、戦後すぐの大災害のあと、砂防ダムの建設が始まったのさ。
もう50年も経っているから、木々は成長し植生に覆われて、砂防ダムがどこにあるか目に付かなくなってしまっている。
紅葉谷公園に降りて、厳島神社の背後に出る。大鳥居の前を通って、商店街へ、朝は海岸沿いに歩いたが、帰りは商店街を抜けて帰ろうか。
鹿が商店街を闊歩している、ひとを恐れないちゅうことは始末の悪いもんだね。
桟橋に戻ったよ、連絡船で帰ろう。

2004年12月_1日 石段を行く、宮島弥山
2007年_2月28日 宮島弥山、紅葉谷から博打尾を

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