2008年2月20日
しぇるぱ単独
山域:山口県周南市

お大師の山、千石岳(周南市)

 

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高瀬サン・スポーツランドさっきまで、周南市のJR福川駅前、真福寺にいたのです。中国地蔵を巡拝していて、その第15番なんですよ。
合併前はここは新南陽市、新南陽市で一番高い山は、えぇと、地図を北へたどって千石岳、ここが一番高そうだ。ここに登ろう。
新南陽市は飛び地の市で、山沿いと海沿いが合併したという変なカタチなんですよ。つまり、合併相手に手近の徳山市を選ばなかった。
平成大合併で周南市になったのだが、徳山市とは名乗らなかった。徳山は地域の王者なのに嫌われたもんだね。
高速道路の山陽道沿いから、中国道の近くまで北上するのだよ。
国道346号線から県道に入って行く。正面の山が千石岳なんだろうな。麓で県道拡幅の工事をしている。
引き返すと、谷沿いにも県道がある。入ってみると狭い道、ドライブマップを見ると、熊坂峠という峠越えの道になっている。
山頭火石碑の前から千石岳を峠から千石岳までは短い距離だ。自動車を頼り過ぎてはまずいだろう、わたしは歩きに来たのだよ。引き返そう。
引き返して国道まで戻る。国道沿いにテニスコートやグラウンドがある施設があったよなぁ。そこなら駐車しても構わないだろう。
高瀬サン・スポーツランド、そういう名前の施設なんだね。
歩きはじめて、新南陽大原簡易郵便局、小さな建物が見える。地図と照合するには便利だから、位置決めのマークとして伝えておくね。
すぐに、国道と県道が分岐して、広い県道と狭い県道の分岐にさしかかる。ここは広い県道を行くのだよ。
道の下に、種田山頭火の句碑がある。住みなれて 茶の花の 咲きつづく
山頭火は防府で生まれたのだそうだが、この地が妻の生まれた地、それが縁で山頭火の句碑があるのだそうな。
県道から分岐して里道へ山頭火の芸術性がどうとかこうとか、そんなことは解らない。ただね、こんなおっさんが親戚・友人にいたら迷惑極まりないと思うよ。
句碑の説明、略歴があるが、批判がにじみ出ている。
句碑を建てたら、たいてい、本人を褒めたたえるもんだが、そうではない、妻を中心に略歴が書かれてある、句碑としては異色の存在だね。
千石岳が正面に見える。登る前は左端の尖峰が千石岳と思っていた。帰りに見たから解るのだが、中央が千石岳、通信塔が見えるでしょ。
県道を進むうち、右側に反転して坂道を登る舗装路がある。
よく見ると、朽ちた道標があって、千石岳登山路とある。ペンキの色素も色あせているよ、コケも生えているよ、昔々に設置した道標なんだね。
集落の中を通って、トタン屋根トタン壁の家、木工の作業場かな、道の反対側に集落の集会所がある。ここから尾根を行く道になる。
曲がり角のブリキの看板が重要これからが要注意なんですよ。実に間違いやすい。
素直に歩くと、舗装路をたどって末端の廃屋まで行ってしまう。ちょうど人がいて、教えてくれた。
岳さんに登るんね。こっちへ来たら間違い。振り返るとブリキの看板が見えましょうが、あそこからお大師さんの道が始まるんよね。
引き返そう。丸い看板、塗りが褪せていて、24番とかすかに読める。ここから石仏の道が始まるのだ。
さっきのひと、
たけさんと言っていたよな、親しみがあってええなぁ。そうか、並んでいる石仏はお大師さんと総称されているのか。
桜の木の下に、
石室せきしつというか石龕せきがんというか、石で囲まれて石仏が安置されている
よぅく見ると、石仏の台座に二十四と彫ってある、あの看板はこの石仏を指していたのだ。
尾根の四つ辻茶畑沿いに進んで、廃屋がある。廃屋の隣りに石龕せきがんの石仏がある、廃れるものあり残るものあり、世の成り行きだもの、諸行無常だねぇ。
その先は尾根道を進んで行く。次々と石仏が現れてくる。
尾根道は四つ辻になっている、ここは山腹の道ではなく尾根の道を忠実にたどればええ。ここの石仏が29番。
木立ちを透かして頂上が見えている。近く見えるから、頂上までそんなに時間はかからないだろう。
ここで丸い看板、高瀬八十八ヶ所 33番へ 薬師如来 奉賛会 とある。33番は道から逸れたところにあるのだよと教えているのだ。
これで解ること、ここの石仏群は高瀬八十八ヶ所というのだ、観音や地蔵や釈迦だけではない、薬師もある、この先36番で不動明王の石仏も見た
舗装の林道と交差する。左にあるのはトイレだね、かわやと看板が出ている。
林道が横切る道を突っ切って山道に取り付く。作業道とお大師の道が分岐している。ここは階段の道に進むのだね。
頂上500と矢印があるが、ここからが急傾斜なんですよ。500メートルは正しいが、感覚では500以上あると感じるよねぇ。
望湖窓と看板がある
天頂思眺息抜汗拭 どのように漢文を読み下すのかと考えたが、単純だ、天頂を思い眺め息を抜いて汗を拭く 順番に読めばええのだ。
地権者誰々の承諾を得て某々と一緒に立ち木を伐採して展望を広げた、こんなことが書いてある。
看板を設置した日付が平成17年霜月24日、あれ、霜月とは何月のことだろう。
睦月、如月、弥生、えぇと、ゃ ょ ぃ、、、エイプリル、メイ、ジュン、こりゃあかん、ネット検索で調べたら、霜月とは11月のことだった。
稜線で電線に出会う眼下に、高瀬湖=島地川ダムが見えている。望湖窓と名付けた効果は出ておりますね。
このあたりから傾斜がきつくなって、せっせせっせと膝を高く上げて踏み切って坂道を登らなきゃならない。
44番の石仏はむき出しで岩の上に安置してある。これまでずっと
石龕せきがんのカタチばかりだったから、かえって新鮮に見えるぞ。
52番ともなると、傾斜はゆるんで、頂上の稜線に近くなってきている。
おや、北側の山裾から電線が延びてきている。稜線は雪をかぶっている。数センチの積雪だ、大したことはないよ。
やっと頂上だ。ここが千石岳。三角点のマークよりも目を惹くのは、高瀬弘法大師安置百年記念、同じく安置百五十年記念の石塔だ。
前者が大正10年と彫刻、後者が昭和46年と彫刻、すると、西暦1821年、文政4年に高瀬八十八ヶ所が始まったのだ。
千石岳の頂上の石龕年号で言うと、文化の後、天保の前、江戸幕府将軍は徳川家斉、こんな時代から続いているのだ。
頂上の石仏を見ると、57番58番、他に、きっちりと石で包まれた石龕せきがんが1基、彫り込みが磨耗しているのが1基、60番まであると考えられる。
干支えとは60で振り出しに戻る、還暦の年齢でもあるよね、奇瑞の数字として頂上に60番を置いたとしたら納得できることだよね。
八十八ヶ所だぜ、残りの28はどこへあるのだろう。西に△574峰が続いている。そこへ続くのではなかろうか。
西の峯への道は雪に埋もれている。雪の上に足跡は見えないね。ま、ええか、そこまで突き詰めて追うこともないさ。
通信塔があって、周南市防災無線とある。ここまで電源を引っ張ってきたのだな。
頂上は芝生の原っぱで、焼け残りの材木がごろごろと転がっている。
千石岳の頂上元日登山とか、弘法大師の紋日とか、大きな焚き火をしたのだろうね。護摩壇はなかった、山伏の出番ではないと思うよ。
麓に高瀬湖=島地川ダムが見えている。南の山々を示す山名板があるが、今日は水蒸気が多くてすっかり霞んでいて見分けがつかない。
四熊ヶ岳に登ったことがあって、あそこと矢印があるのだが、霞んでいることだし、山のカタチでそうなのかなと妥協しとこう。
遠くが判然としないなら手近の道だ。登ってきた尾根道を、ああだろう、こうだろうと眼で追いかける。
さぁ、降りようか。
電線が登って来ているところで麓を見ると、中国道が走っている。
上り線と下り線がかなり離れたところを走っている。トンネルを別々に掘ったほうが経済的なんだろうね。
降りる時は一挙に降りて行く。
たちまち麓まで下りて来たぞ。中国道の鹿野インターから帰ることにしよう。

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詳細地図、地図上でどこで撮った写真なのか解ります




カシミール展望図をつけました。立体的に地形が浮き出て一目でイメージを把握できます。


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