2008年6月10日
しぇるぱ単独
山域:島根県安来市

尼子の本拠地、月山富田城がっさんとだじょう

 

画像をクリックするとそのままそこだけ拡大表示されます
Microsoft Edge のユーザーは、画像・テキストにちょっと触れてください、その効果で、ポップアップページは消えます
Internet Explorer Google Chrome Mozilla Firefox のユーザーは何もしなくてもポップアップページは消えて行きます

 

道の駅さっきまで印珠寺にいたのですよ。中国地蔵の巡拝で、第24番の寺です。
印珠寺は足立美術館の前の交差点を北に向かった。ふたたび足立美術館の前に戻って、今度は北西に、川上に向かうのだね。
広瀬の市街地を迂回する道に入って橋を渡る。この橋の名前が新宮橋。
尼子一族の中に、この真向かいの新宮谷に住まいして、彼らは新宮党と呼ばれてめちゃめちゃ強かった。あまりにも強すぎるので、尼子の当主から謀反の恐れを受けて殲滅された、そんなゆかりの名前の橋です。
橋を渡ってすぐに道の駅、歴史資料館が併設されています。
駐車場の看板・地図などを眺めて、おおよそのイメージを拾っておこうぜ。ふむふむ、順路は歴史資料館から川上に歩いていけばええのだ。
富田城、千畳平山に登る舗装路が分岐している。厳倉寺・観音寺へ誘導する分岐があるが、そちはパス、このまま舗装路を歩いていこう。
舗装路から千畳平へ石段が分岐している。観光的な順路はこっちから進むのがお勧めらしい。それに従おうか。
なるほど、広いね。千畳平とはよう言うた。これに続いて太鼓壇などがあるのだそうだが、それとは判らぬまま通り過ぎてしまった。
山中鹿介の銅像がある。ここでは領主の尼子一族より臣下の山中鹿介のほうが人気が高いのだね。
正しくは山中鹿介なのだそうだが、世間では山中鹿之助で馴染んでいる。正しい名前で言われると別の人みたいだね。
所詮は傍流の、時計の針を戻そうとする旧守派の人物じゃないか。山中鹿之助は、なんで民衆の琴線に触れるのか、もてはやされるのか、そこのところが理解できない。
大きくぐるっと回っただけでもとの舗装路に帰ってきた。あそこは兵営であり、練兵場なんだろうね。
富田城、山中御殿舗装路を登るとたんぼがあり、民家が奥にある。有為転変だね、廃城になったからには開拓開墾されるのは当然のことだよね。
あれまぁ、草の道から子供たちがたくさん出てきた。何年生なの?保育所ぉ。へぇぇ、大きいねぇ。たくさんいるねぇ。頂上まで行ってきたんよ。おじちゃんも登るんね。
櫓を石で組み、石で城壁を連ねてある。中世の城でこれほど石を多用した例は他で見たことがないぞ。
思い出すと、北近江の浅井長政の小谷城南近江の佐々木六角の繖山観音寺城、ここは豊穣な地域だから石組みがあるのも納得できる。
中国地方の中世の城はどこも石垣などはなく、土を掻き揚げ、空堀を掘り下げ、どこもそんなもんだ、それが標準だと思い込んでいました。
毛利の郡山城にさえ、石垣はない。石垣を組む石工の技術が未発達だったのだと思い込んでいました。領主の貫禄は動員力、財力に現われるんだね。
櫓の石垣に驚いて、さらに登れば平地に出る。ここは上御殿平下御殿平、総称して山中御殿というのだそうな。
月山、三角点断っておくが、やまなかしかのすけのやまなか御殿ではないよ、ローマ字表記を見ると、さんちゅう御殿なんだそうな。
へぇぇ、ここは広い。殿の住まいがあり、大広間があって、政務、軍議を諮問・検討したのだろうね。
これほど軍備が分厚く、資本密度が高い尼子がなぜ負けたのだろう。城を比べてみるに、毛利・尼子の間では、圧倒的に尼子のほうが優れているのに。
ここからは山がぐっと盛り上がっている。円形の石垣の櫓を横手に斜面を登って行く。軍用道と看板がある。
ちゅうことはだ、殿様は山中御殿に座っていて、ここから上は侍大将、旗頭、物頭に任せておいただろうね。殿様が大汗掻いて登ったり降りたりは想像しにくい。
斜面を登り詰めて、三の丸、環状に石垣を取り巻いた平地があるが、これは三の丸の補助曲輪だろうな。
さらにその上に平地があって、そこが三の丸の本拠だろう。
京羅木山三角点があって、△183.8、ここが月山の三角点なんです。あとで苦情を言うから覚えておいてね。
鳥居があって、鳥居の先を透かせても本殿は見えない。この先にあるんだろうね。
このに先は、一段と高いところが広場になって、休憩舎がある。ここが二の丸に相当するのだろうな。
ここからは広瀬の市街地が展望出来て、市街地の背後に京羅木山がそびえている。頂上にタブノキが単独で残してあるのをこの目で確認したところだ。
頂上には、独立樹が見えている。あの山は京羅木山に間違いない。
真向かいの山を占拠されるとは、尼子としては甚だしい失態だね。あげく、現在は国道432号線の祖父谷から軍勢の侵入を許して、城下を蹂躙されている。
以前には、尼子が毛利を攻めて、郡山城を包囲したこともあるのだよ。
南の道での鳥居郡山城では、軍勢を収容する広場は極めて狭いものだよ。ここの富田城のように平地がなんぼでもあるのとは大違いだ。
両者の城を比較すると、尼子が勝って当然と思えるのだが、毛利が勝ったのが信じられない、不思議に思えるよ。
よっぽど軍の采配がへたくそで、地方領主との同盟恩賞がおろそかだったとしか思えないぞ。
掘り切りを隔てて本丸に向かっている。二の丸の先端からちょっと引き返して下の道を進んで本丸へ登って行く。
本丸跡との看板があって、ここは、行きつめたところにあるので別名
つめの丸とも言う。
ははん、そういうことか。東広島の頭崎城
つめの丸と看板があった、意味不明のまま、その場では疑問は解けなかったが、やっと言葉の意味が理解できた。
だけど、疑問の一部はまだ解消されていないよ。詰の丸なら納得できる、甲の丸と、甲の文字を使う理由がわからない。
本丸からは、月山の西の谷、塩谷二の丸から広瀬の市街地、京羅木山まですっかり展望できる。
石灯籠があって、突き当たりに神社がある、勝日高守神社と看板がある。尼子時代には城内の守り神だったのだそうな。
神社の周囲を一回りしたが三角点らしきものは見当たらない。
あのね、「ヤマケイの新・分県登山ガイド島根県の山」を持って歩いているんですよ。
神社のところに山頂マークで、△256.1とある。GPSで見るに、そんな標高にはなっていないよ。せいぜい170m前後しか示していない。
もう一箇所、183.8と標高表示があるが、そこは二の丸にあると表現されている、ほんとは三の丸にあるのにね。そこがほんとの三角点なんですよ。
執筆したのはどんな巨匠か知らないけれど、書き散らしたやっつけ仕事だなぁと嫌になってしまうね。
川辺から月山を神社の周囲は森で見通しが効かないのですよ。まだガイドブックを信じてる。この先に△256.1があるのだな、そこまで行かなくては。
引き返して、石灯籠の脇に下へ降りる道を見つけた。この道を行けばええのだろう。この先に登り直す頂きがあるに違いない。
どんどんどんどん道は下がって行く。道の途中に鳥居が出てきた。この下から参拝する道が続いているのだ。
粘板岩の上をステップを切って足の置き場を作ってくれてある。これがなければ滑りながら転びながら降りていかねばならないところだった。
今なら判る。このガイドブックの記述は間違いだ。
もう引き返すには遅いよね、このまま降りて麓に出たほうが賢いだろう。
出ました。民家の裏側に出てきた。民家の墓地の背後から抜け出してきた。
川辺対岸から月山を尼子晴久の墓と案内があるが、たとえどなたの墓だとしても墓に興味は湧かないなぁ。矢印に背を向けて舗装路をたどろう。
尼子晴久とは、尼子最大の版図を拡張した当主だが、その子義久の時代に負けて滅亡した、栄光も続かないもんだね。
舗装路を歩いて川岸まで到着、この川の水運、河口の港の制海権を失ったのが敗因ということだが、厳重に手当てしておくべきを怠慢にしたのが間違いだね。
ぽくぽく歩いて、もとの道の駅まで帰った。
川の対岸から月山富田城を眺めて、それから帰るとしようかい。
広瀬から松江への国道432号線で帰ったが、途中で、すれ違い不能の道の細いところがある。
国道と言っても、ピンからキリまであるんだねぇと思い知ったもんだよ。

OS,プラウザの種類、ヴァージョンによっては、JavaScriptErrorと宣告され、表示されない場合があります。
その時は下の文字、数字をクリックしてみてください。
1 2 3 4 5 6 7 8 9





詳細地図、地図上でどこで撮った写真なのか解ります




カシミール展望図をつけました。立体的に地形が浮き出て一目でイメージを把握できます。


前ページへ

あちこちの山へかえる

トップページへかえる

 囲炉裏へリンク